田辺市の偉人・有名人

植芝盛平
■植芝盛平(うえしばもりへい/1883~1969)
合気道開祖・植芝盛平は幼少より武術の修行に勤しみ、起倒流柔術(きとうりゅうじゅうじゅつ)・柳生心眼流柔術(やぎゅうしんがんりゅうじゅうじゅつ)を修めた後、1915年、大東流合気柔術総本部長武田惣角(1860年 - 1943年)に入門、1922年教授代理を許された。1917年宗教団体大本に入信、京都の綾部で独自の修行を続け、甥の井上鑑昭(親英体道の創始者)と共に「合気武道」の指導を行う。1927年竹下勇海軍大将らの支援を得て上京、1931年皇武館道場設立、1940年財団法人皇武会(後の(財)合気会)設立、1942年「合気道」の名称を用いる。戦後、のちに二代目道主となる植芝吉祥丸や弟子達によって一般に普及し、知られるようになる(植芝盛平自身は普及には消極的であったと言われている)。

武蔵坊弁慶

■武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい/生年月日不明 ~1189)
紀伊(現在の和歌山県)の熊野で生まれた弁慶は、一説によると18ヶ月もの間母の胎内にいたとされ、生まれたときですでに2、3歳に見えたと言われる。幼名を鬼若とされ6歳の時に比叡山延暦寺に預けられた。幼い頃は学問にもいそしんだが、成人する頃には持ち前の怪力で暴れ回るようになり、比叡山の宗徒と対立。追われるように比叡山を離れ、武蔵坊弁慶を名乗る。
やがて弁慶は願掛けをして千本の刀を集めようと、夜な夜な京の都を徘徊するようになる。千本まであと一本というときに義経(牛若丸)に敗れ、感服した弁慶は忠義を尽くす家臣となる。
時にはその怪力で太刀を振り、時にはとっさの機転を見せる。義経の右腕として行動をともにしていた弁慶。最期は奥州衣川にて藤原泰衡の軍から義経を守り、全身に矢を受けて立ったまま絶命したと言われる(弁慶の立ち往生)。


南方熊楠 ■南方熊楠(みなかたくまぐす/1867~1941)
博物学・民俗学
民俗学の分野における近代日本の先駆者的存在であると同時に、植物学、特に「隠花植物」と呼ばれていた蘚苔類・藻類・地衣類・菌類・変形菌類(粘菌類)の日本における初期の代表的な研究者で、あくまでも「在野」にこだわり続けながらも、単なる植物学者ではなく、自然科学から人文科学まで有りとあらゆる事象を研究の対象とする「一風変わった」研究者でした。

■この地元での有名人といえば…
青木健斉 尾鷲市北浦町の妙長寺の住職
青木孝誠 教授
安部崇慶 教授
イーデス・ハンソン タレント、エッセイスト
岩本 尭 プロ野球選手・元巨人
岩本多代 女優
岩見よしまさ (飛石連休) お笑いタレント
臼井孝之 経済界
潮 隆雄 教授、染織工芸家
植田幸弘 プロ野球選手・元広島
上田次朗 プロ野球選手・元阪神
小川琢治 地質、地理学者
太田隆文 映画監督
奥野健一 弁護士・最高裁判事
小野健吉 文化財調査官
沖野節三 名誉教授
岩峪賢次 画家
   
片山 哲 第46代内閣総理大臣
桂 三歩 落語家
樫山 圭 元MOON CHILDドラマー
賀川けい子 歌手
木下 透 ゴルフ
北 公次 (フォーリーブス) 歌手
楠 淳生 アナウンサー
楠本未来 声楽
小西博之 俳優
   
坂本冬美 演歌歌手
佐山和夫 ノンフィクション作家
佐武博司 人材派遣コンサル
渋谷隆之 小磯良平新人賞油彩画
千田川熊蔵 大相撲
須藤慎吾 音楽家
   
滝本智之 教授
高川 格 囲碁(元本因坊)
竹中 晶 競艇(女子)選手
竹中文良 教授
多屋修一 中小企業診断士
田中 光 元体操選手
田辺大蔵 歌手
たなかじゅん 漫画家
天童よしみ 演歌歌手
辻村由香里 メソソプラノ歌手
鳥山 啓 軍艦行進曲の作詞者
土井汲泉 書道家
   
長井 彬 小説家
中田和代 グラフィクデザイナー
中山晴生 経済界
中瀬ゆかり 雑誌編集長
西岡良洋 プロ野球選手・元巨人
西岡良展 NOMOベースボールクラブ
野長瀬晩花 画家
   
原 勝四郎 画家
早田卓次 元体操選手
濱中 治 プロ野球選手・ オリックス
稗田一穂 画家
日吉 章 経済界
福田光次郎 シンガーソングライター
羽山良太 お笑いタレント
広居歩樹 童話・児童文学
広本直子 画家
   
松澤佑次 教授(住友病院長)
松上京子 講師
南方英二 コメディーグループ チャンバラトリオ
村岡 亘 教授
森本研次 経済界
益山英吾 画家
   
山本玄峰 増侶
山本博章 教授
山畑祐介 お笑いタレント
湯川真理子 脚本家、シナリオライター
寄本勝美 教授
   
脇村禮次郎 経済界
脇村義太郎 名誉教授
脇村春夫 前日本高野連会長
和佐大八郎 紀州藩士 (三十三間堂通し矢で有名)
渡瀬凌雲 画家 (熊野古道なかへち美術館)                       (敬称略)